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【午後2時18分】

「曾良くんの初恋っていつ?」
「アンタに関係ないでしょう」

朝からまごまごしながら視界の隅をうろちょろしてると思ったら、これだ。
芭蕉さんの質問をこれ以上もなくばっさりと斬捨てて、僕は手元の書類に視線を落とした。 これ以上言い募っても無駄だと感じたのか、ちぇーと言いながら芭蕉さんが離れていく。
ひとつため息を落としてから、デスクワークのため凝った肩をほぐした。 パキ、と小気味いい音がする。

さて、あのひとに余計な入れ知恵をしたのは誰だ。


【午後7時38分】

「あぁ、社長ですよ」
仕事終わりのコーヒーを飲みながら、あっさりと小野さんは認めた。 予想通りの答えに眉根を寄せた僕を見て、彼は肩をすくめながらコーヒーを啜る。
小野さんは少し小柄で童顔だが、れっきとした先輩社員だ。 僕が手伝いにくるまでは編集なのに何故か経理までやっていた経歴を持つ、 有能だけれど人がよいためなかなかに貧乏くじを引きやすいタイプの人物。 相手が誰でも(1番新入りの僕にでも)基本的に丁寧語で話したりと礼儀正しい――― 時々箍が外れるようだが。色々と。
「昨日僕と社長で話してるとき、河合って恋したことあるのかなーなんて話が出たんですよね。 曾良くんが入社してから1年くらいになるけど、 バイトで来てくれてた頃から全然そういう話聞かないもんだから、 あのルックスでなにもないわけがない!って騒ぎ立てて。 で、今朝その話をアホが先生に話したわけですよ」
「…」
「僕を睨まないでくれませんか。 つか今、社内でそんな話題を出せるのはアホと先生くらいだから諦めてください。 誰もそんな藪をつつくようなことしたくないって」
若干イラついたような小野さんが静かに僕を見る。
「どういう意味ですか」
「見てりゃわかるからだけど」
「…」
「なんで本人に通じないのかって?そりゃ」
小野さんはコーヒーをぐいと飲み干し、ゴミ箱に向けて紙コップを投げた。

「先生だからじゃないですか」

カコン。
コップはきれいな流線を描いてゴミ箱に収まる。

全く、道理だ。


【午後9時4分】

「芭蕉さん?」
「あ、曾良くん」
「まだ帰らないんですか」
ん、んー、んー、と唸りながら芭蕉さんは机の上に広げてあった写真と僕を交互に見たあと、 「よし」と自分に言い聞かせるように呟いて写真を大きな茶封筒に詰め始めた。
「これ片付けたら帰るよー。曾良くんは今日ごはんどうするの」
ばさばさと詰め込まれて行く世界の断片が写った紙切れをなんとはなしに見やりながら僕は 「いつもどおりです」と答えた。
僕と芭蕉さんが住んでいるところは徒歩20分ほどしか離れておらず、最寄り駅が同じなのは元々知っていたけれど、 その最寄り駅のすぐそばの定食屋で一緒に夕食を済ませて帰るようになったのは、ごく最近のこと。 元々芭蕉さんのお気に入りだった店を、偶然僕が見つけたのがきっかけだった。

写真。
切り取られた、世界のかけらたち。圧縮されたコピー。

「何の写真ですか」
「ん、『ひよりの友』の企画用のなの。毎月テーマを決めて、読者の方に歌を投稿して貰うんだ。 テーマに合わせた写真をね、私に選んでほしいって清風くんが」
「成る程。歌の批評も?」
「ううん。私は毎号、敢えて句じゃなくてエッセイ?みたいなのを書いてって言われちゃった」
「浮かない顔ですね。詠めないからですか」
「んん…いや。私が詠むと、なんだか読者の方がそれに倣ってしまうのがねぇ、最近怖いなって。 私の句が良いと思って、その、いいところだけ取るとか学ぶとか活かすとかじゃなくて、そのまま… いや、真似とかでもないんだけど」
芭蕉さんは何て言ったらいいのかなと珍しく苦笑いする。

「自分のこころを伝えるのに必要なのは技巧じゃないし、言葉でないときだってあると、私は思うんだけど」
ぽつりと芭蕉さんが呟いた。
「じゃあ、こころを伝えるには何がいるのだろうね。」

全く、苛々する。
苛々するほどに、この人は。

僕は黙ったまま芭蕉さんから封筒を取り上げ、 あまり物の載っていないデスクの上にぽつんとある棚にそれを乗せた。

「帰りましょう」
「…うん」

微笑むあなたに対して『だからあなたは俳聖と呼ばれるのだ』と、 僕の脳裏に浮かんだ言葉は宙を舞うことなく消えた。 少なくともこの人は、現代を生きる松尾芭蕉は、ただのおっさんだ。
「確か今日の定食はさばだよっ」
「そうですか」
かばんを揺らしながら、僕の隣でこどものような笑顔を浮かべてはしゃぐキモいおっさん。
「小鉢はなにかなー、ほうれんそうのおひたしかなー、おからの煮物かなー、あっ、ごまあえでもいいなー。 青菜いいよね!」
「五月蠅いですよ芭蕉さん、静かに歩けませんか」
「ひじきっ」

ただの、僕の好きな人。


【午前0時6分】

ぐーすか寝こんで起きないおっさんを部屋の隅に足で転がして追いやった後布団を敷く。
夕食のあと僕の家で飲むのも「いつも」になりつつある。 喜んで良いのかと言えば、小野さんには贅沢だと言われるだろう。 彼の場合は拒否権は無かったのだし。
食事中は僕の初恋について追求することはなかったが、 代わりに自分の初恋について聞いてもいないのにべらべらと調子よく話していた。 初恋云々はどうでも良いが、幼い頃の芭蕉さんの様子がなんとなく伺い知れたのは収穫と言っていいかもしれない。
すなおすぎる。無防備すぎる。無邪気すぎる。
飾り気のない、素朴だがまっすぐなことばたちは、 彼を取り巻く人々にとっては受け容れがたいものだったろう。 おそらく、普通の人が毎日を生きるために少しずつ削っていくものをあつめて、このひとはできているから。

「芭蕉さん、」 転がってくださいと言う前に蹴飛ばしてみた。
「ふとんっ」とか言いながら芭蕉さんが転がり、丁度布団の上に寝るかたちになる。
くうくうと寝息をたてるおっさんは、酒臭い。キモい。このまま風呂に頭から放り込んでやろうか、と思う。
掛け布団を細いからだにのせてやり、僕はその隣に正座した。

「…ばしょうさん」

いらえはない。

「僕は、どんなかたちでこの世に現されようが、そうでなかろうが」
「―――あんたの、こころが好きですよ」

俳句や言葉として生まれてくるそれらは酷くこの不器用なおっさんの紛れもない一部であり中身であり。 逆に言えば、それらが幾重にも積み重なり、目の前に転がっているこのおっさんをつくっているのだ。
小さなキスをこめかみに落としながら、素直に いとしい と思う。
様々な思いはあれど、変わらないそれ。

『曾良くん』






恋だのなんだの、そんなものはどうでもいい。
名づけたいのなら何とでも。

ただ、



叶うなら、貴方の傍に。


2009/03/28