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あの日のことを僕はよく憶えている。

 
645年 蘇我入鹿 暗殺
これを乙巳の変という。


この事件を皮切りに、権勢を誇った蘇我氏に対して中大兄皇子と中臣鎌足を中心とした大化の改新という新しい政治の動きが始まる。

知っていた。
そんなこと、歴史の教科書には当たり前のように書いてあるし、「歴史好き」だった僕にとっては既知の事実だった。暗殺。「政治的な理由などで要人を殺すこと」。うん、そのことも知っていた。邪魔者は消す、なんていうのは子どもでもわかるシンプルな理論だ。
当たり前のことすぎて、考えたことなど、なかった。

「入鹿さん」
「あん?」



「入鹿さん、またね」
「おう。またな、太一」




これから彼岸へと旅立つ人へ、僕はまたねと手を振った。

タイムマシンに乗り込んで座席に着いて、そうして僕は初めて自分が泣いていたことに気が付いた。
入鹿さんが気付いていない筈はなかった。
あの人は笑っていた。
いつもと同じように。ちょっと悪戯好きそうな、幼い笑顔で。

入鹿さん。
蘇我入鹿。

これから身の回りの人間に裏切られ、切り付けられ、殺され、雨のなかに打ち捨てられる人。
あの人はもう二度とあんなふうに笑うことはない。

僕に、あんなふうに
笑って、またなと、




帰ってから、声一つ上げずにほとほと涙をこぼし続ける僕に博士はタイムマシンの使用を禁じた。
僕自身他の時代へ降り立つ気持ちは全く無かった。
半月ほど経って、博士は消えた。
ある日いきなり唐突に、何の予兆も見せず。
部屋のなかに残っていたのは紙切れ1枚。

「わすれなさい」

何を?
誰を?
なにを?
僕は、僕は、僕は、






『太一』






笑わないで笑わないで入鹿さんそんなふうに優しく笑わないで僕は、僕はほんとうに子どもで
僕はあなたが、あなたのことを、

笑ってください。僕に、どうかもう一度、そうしたら僕はあなたを


ときどき、僕は現実に生きているはずなのに夢を見ているような気持ちになることがある。
しんしんと冷えるばかりの僕の心は、確かなものを何一つ持てないまま痛みさえも感じない。

だってぼくのなかにはまだずっと雨がふりつづいていて、あのひとをつめたく打ち、何度その場面を夢に見ても、 手も声も雨音にかき消されて届くことはなく、笑ってくれたあのひとに夢の中でさえなにもできない僕は、せめて、



涙を捨てた。









2010/02/02