*font size*    L/S   ・・ ・・ ・・




 

『いるかさん!』
『うわまた来た!』

うげぇ、と言いながらも笑っているその人が、ちょっと乱暴に僕の髪を撫でてくれるのが好きだった。



今思えばすごくすごく不器用だったんだと思う。
幼い頃から「蘇我」の人間として生を受け、権謀術数のなかを生き抜いて来たのだから、 僕みたいに生まれた時から基本的人権だの生存権だのに守られた現代のひよっことは 比べ物にならない人物だったというのは間違いない。
幼い僕には分からなかったけれど、頭も良い人だったはずだ。 隋に渡り、帰国後は政治の中枢を担った僧である旻が、彼の才を褒めたたえていた史実がある。

あの人はきっと、生きるための手段としての政治には長けていた。
でも、恐ろしく不器用だったんだろう。
生きる以外のための、様々なことに。

あの人には僕のような子どもの頃はなかったんじゃないか、というぼんやりした考えは、 学生時代の歴史か何かの授業で確信に変わった。
「子ども」とは近代に入って登場したのだという説がある。
かつては親の手伝いができる年齢イコール労働力であった。 例えば、歴史の教科書には産業革命時のイギリスに関して、 よく炭鉱に潜るこどもの姿が描かれた史料が出てくる。 これは子どもが法外な条件で過酷な労働を強いられていたことを問題提起するための図版だ。 その問題はさておいて、描かれた彼らの姿は確かに子どもであるけれど、 労働力であることもまたこの上ない事実だということが僕には引っ掛かった。 近代以前では一般に、力のない赤児から一足飛びに労働力へ――すなわち、大人になる。
しかし近代以降社会は複雑化し、求められる労働力の変化や仕組みの変化により、 「学習」の必要が生まれる。そうして生み出されたのが、「子ども」だ。 僕らでいえば、小学生以上社会人未満の時期がこれにあたるように思う。
生きるための術を身に着けるための時間。
充分に己の責任を取れないとされ、大人の保護下に置かれて、よくもわるくも守られる時間。
生きることを豊かにするためのものを経験し、知り、力にしていく時間。

では、生まれたときから絶対的な家を背負ったあの人に、 果たして「子ども」時代があったか?
否、だろう。おそらくは。
たけうまひとつできないと僕はあの人を笑ったけれど、 彼はきっと、そんな時間を持たなかったのではないか。 ただたゆたうような、穏やかな時間を過ごせたことがどれだけあったのだろう。
正直に言えば、幼い頃の僕はそんなこと考えもつかなかった。
会えないことだけではなく、彼に対して酷く「さみしい」と感じたのは中学生のとき。
高校生の頃、いるかさんはもしかして、 そういう「さみしい」ことさえ感覚として知らなかったのではないかと考えて、少しだけ泣いた。
無力だった。

あの人は悲しいくらい大人で、僕はどうしようもなく子どもだった。

僕はいつ大人になれるのだろう。
あの人を守れる大人になれるだろう。

いるかさん。いるかさん。いるかさん。

可哀相だとか、そんなことはもういい。
ただ思うだけの時間はもう要らない。

僕はあなたを大事にしたい。
ただただ大事にしたいのです。






そうして僕は、11年かけて入鹿さんに恋をした。
だから、ねぇ、



いいから黙って、

僕に貴方を愛させて。




2010/02/15