「おう。またな、太一」 無理に笑顔を浮かべた幼子は、またねと手を振り不思議な乗り物ごと姿を消した。 ごめんな。 俺の手ではお前の涙を拭えない。 子どもはまっすぐな目で俺を見て、血で血を洗って生きてきた蘇我の人間である自分を 「権力しかないダメ人間」と呼んだ。 毎年決まった時期に訪れる老人と少年の2人に対し、自分は初めの何年かこそ腹を立てていたものだが、 その指摘が間違っていないことを認められるようになったことはその後の自分にとって大きな糧となった。 俺は"それ"しか呼吸の仕方を知らない。 自己についての正確な把握・意識があるか否かは大きな違いだと、 教養として他国から学んだことを諳じることができるだけでは足りないのだと、 自分の後に続くものに教え諭してやりたい気持ちは強い。 だが、これまでの自分がその邪魔をする。 少年と出会うまでの自分の積み重ねが、自分の邪魔をする。 この事実に自ら気付くことは難しい。 ひとりでは見つけることは困難なことは数え切れないほどある。 だから、他者とは踏み台とするだけの卑しい存在ではなく、 蹴落とすことも頼りにすることもある、ある意味では対等なものなのだと―――今更。 自分の手の内にあるのは、駈け上がるだけではなく、人を蹴落として貶めて初めて確かなものとなる地位と権力。 子どもに出会ってふと浮かび上がったのは、もし自身がどこかで何かの選択を間違えたならば、 そのときには崩れた礎の上に一体何が残るのだろうという疑問だった。 自分は間違なく殺される。家族も部下も、みんなだ。 一族は勢力を殺がれ、おそらく今の繁栄は二度と戻らないだろう。 祖父さま。祖父さまはどう考えていたのだろう。一体何を、 ―――何を「守って」いたのだろう。 最初にあの子どもが訪れた時点でなんとなく見当はついていた。 蘇我はおそらく、凋落する。 それも、俺の死をきっかけに。 近頃の不穏分子の動きと、今朝方の報告、そして今日の太一の態度で全部分かった。 ―――これが最後かと思うと惜しかった。 お前が笑うの、好きだったんだけどな。 ばかにしたみたいに俺のこと笑ってるのが可愛いくみえるなんて どうかしてるとしか思えないけど、ほんとうだった。 笑ってほしかったな。 父は蘇我に迫っている勢力について、まだ理解が及んでいないようだが仕方がない。 あの人は頭は悪くないが、あまりかしこくはない。 出来るなら少しでも苦しまずに討ち取られるようにと願うのはやはり親子の情だろうかと考えたが、 こちらが相手を討ち取ることを望まない時点でやっぱり俺はダメかもしれないと思い当たり、 思わず小さな笑いが漏れた。 ひとつ、大きく息をつく。 自分がどういうふうに殺されるのかある程度は察しがついていたから(従兄弟殿には大変申し訳ない)、 せめてあの子どもの笑顔くらい持っていきたかったが。 あの子どもは蘇我じゃない俺を覚えていてくれるだろうか。 唯一、「蘇我入鹿」を「俺」にした子ども。 ――――たいち。 心臓が軋んだ音を立てる。 もう見えない子どもの姿。 さびしい な でも、仕方ないだろう。万物には因果がある。 お前のことばにきっと嘘はなく、だとすれば俺が足掻き流れを妨げようと動くことは多分、 お前が帰るべき生きるべき紡いでいく世界を壊すことだろう。 だから、どうかお前は 「――――みつけた。」 そのとき、自分の身体を確りと捉えたのは細いけれどしっかりとした男の腕だった。 「…ッ!?」 「暴れないで」 不意を突かれて全身が緊張するが、 ―――あ。 ふわりとただようのは、あの優しい子どもが教えてくれた、未来の世界の『セッケン』のかおり。 そうして、自分は後ろから羽交い絞めにされているというより、抱きしめられているらしいことに気付いた。 「大丈夫」 落とされる囁きは低く、静かに鼓膜を震わせる。 視界の端で、さらりとまっすぐな細い黒髪が揺れた。 無理やり振り向いた先、自分の目線よりも少し高い位置にある笑顔とぶつかる。 「むかえにきたよ、いるかさん」 だから僕のものになってと、無邪気に笑う青年の顔は、 確かに毎年同じ時期自分の元へとやってくるのを楽しみにしていた、 先ほど別れたばかりの少年の面影を持っていて。 大きなてのひらに視界が遮られ、なぜだか意識が遠くどこかにとけていく。 ぼんやりとした脳裏に浮かんだのは、青年ではなく大事な大事な子どもの姿。 ―――、ああ、どうか、どうか、 どうかお前が、たくさん 幸せでありますように。 そうして俺は、50万の夜と時間を超えた。 2010/02/16 |