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目が覚めると、まずまっしろい天井が見えた。
その時点で自分が居るのが己の寝所でないことが分かり、 警戒のため自然と身体に適度な緊張が走る。 静かに指や足の動きを確認し、五体に異常がないことをたしかめる。
身体はずいぶんふかふかしたものに横たえられていた。寝台なのだろうか。

…なんだろう。

警戒は断てないが、命の危険は感じない。
この香りのためか。

あの子どもの、セッケンの香り。



とん、とん、とんと何かが近付く足音と気配。
開いた扉から姿を見せたのは、最後の記憶のなかの青年だった。


『むかえにきたよ、いるかさん』


「あ、いるかさん目が覚めた?」
「…」
「ここは僕の家だから大丈夫だよ。…もしかして僕のことがわかんない?かな?」

確かに目の前に立つ青年は面影があるとはいえ知らない人間だった。
自分の知る『太一』は俺の腰あたりまでしか身長もなく、 男相手にこんな言い方はどうかと思うが笑うと花のような子どもだった。 声だって全然違う。室内に響く低音はあの子どもよりもずっと静かで、なんだかここちよくて。 逡巡しながら、そっと名前を呼んでみる。

「―――たいち?」

そうして、俺が躊躇いがちに名前を呼んだとき、ふわりと浮かんだその笑顔は。

「うん、そうだよいるかさん」
「太一だよ」
「岡山太一。おおきくなったでしょ?」

静かに俺のいる寝台へと近づいて腰を下ろした太一の、 おとなびた顔に対してはにかむような笑顔は幼く、ようやく太一だと確信できて、 だから、ようやく絞り出せた言葉は、「なんで」という問いだった。
「…いるかさん?」
「ここはお前の世界じゃないのか。なんで俺を連れてきた? そんなことをしたら、因果が壊れるんじゃないのか。未来が、お前の現実が、」
なんだろう。胸が熱くて頭がぼうっとするのに、言葉だけがするすると飛び出して行く。
いやだ。俺が願ったのは自分自身の生ではなくてただ、

「…聞いて」

太一がそっと、上半身だけ起こしている俺の口許に指先を寄せた。 まっすぐに俺と視線を合わせたまま静かに、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を吐き出す。

「僕はね、そんなものよりいるかさんがよかったの」

何?
「―――俺が?」
「そう。いるかさんが心配してることについては、落ち着いたらきちんと話すよ。 あなたを過去から浚ってきたのは僕だから、 僕があなたにことの次第を説明するのは当たり前でしょ?僕はいるかさんに嘘は吐かないよ、だから」

今度は困ったような顔をしてから、太一は俺をそうっと抱き締めた。

「泣かないで、いるかさん」
「僕はあなたがいないと幸せになれない。あなたが生きて、笑っていてくれないと。だから、」
「ここにいて?」
「あなたのことが 好きなんだ」



ああ、痛い。
全身が心臓になったように響く鼓動は、慣れない自分にはあまりにも苦しくて、 なのに抱き締める腕はどこまでも優しくて、――甘い。 泣いてない、と反論しようとしたら声が掠れて出なかった。 代わりに部屋のなかに流れるのは、もう何年も聴いていなかった自身の嗚咽。
「あとね、いるかさん。ちょっと知らせておかなきゃならないことがあるんだ」
「…ぁ、うぅ…」
「原理とかはまぁ、説明できなくはないけど 今のいるかさんの現代の知識では判らないと思うから、結果だけ」

ほそい指先で示されたのは、
――――鏡?

映るのは太一と、




「…え、え、えええええぇ?」
頼りない声を出しながらうろたえる俺に、太一は苦笑しながら『結果』を告げた。

「いるかさん、こちらにくるときに多分身体の時間が巻き戻ってる。今は20代くらいじゃないかな」

ちなみに僕は今20歳だよと無邪気に笑う太一の腕のなかで俺はしばし涙も忘れて呆然としていた。 そんなまさかばかなことが。 いや確かにくだらない問題や俺を浚うためだけに時間を超えてきたこいつがそもそもばかだ。
がんがん痛みはじめた頭を太一の肩に擦り寄せながら、俺は名前を呼んでみた。
「…太一」
「なぁに?いるかさん」
「その、あの言葉の意味は。俺はお前に囲われるのか」
なんとか搾り出した俺の質問に、太一はきょとんとしてから噴出した。
「まさか!責任はとるよ?勿論。生きるのに必要な知識は全部叩き込んであげる。 希望があれば大学に行けるくらいにね」
「ダイガク?」
「大学はねー、勉強する場所のなかでも一番階級が高いとこ。僕も通ってるよ、一応」
「一応?」
「うん。もう通わなくていいんだけどね、もう卒業できるし仕事もあるし」
「…????」
「ふふ。今みたいに分からないことがなくなるように、勉強しよう。 あと、戸籍も用意する。あなたはこの世界の人間になる。」

そうしたら。

「あなたの意志でどこにいたいか決めたらいい。 僕は僕で、あなたが自分から僕のそばにいてもらえるように、頑張るから。だからとりあえずは、」

ごはんたべよ?
それから、これからの話をしよう。

ニコリと微笑む太一には一分の隙もなく。


俺は随分ととんでもない人間に傾倒していたみたいだと、そのときようやく気がついた。





花ぬすびととスパイダー



2010/02/17