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あの日は珍しく、静かに飲んだ夜だった。


行きつけの定食屋で晩御飯を食べた後、あの人は僕を小さな飲み屋に連れて行ってくれた。
路地を数度曲がり、見えたのは竹でできたちいさな門。 ひとひとりが通れるくらいの幅のそれをそっとくぐれば、石畳のほそい道が店の入り口へ続き、足元を小さな明かりが柔らかく照らしていた。 カラリと開いた扉の向こうも明かりは最低限の橙の明かりのみ。
所謂和風居酒屋とはまったく別の趣で、でもどこか懐かしい雰囲気は、僕にとってはとても好ましいものだった。
広さはそう無いものの、いくつかの座敷とカウンターとがあり、芭蕉さんは一度僕ににこりと笑いかけてからすいと奥の座敷へと入っていった。
ほかにも客はいたが、どの組もこの静寂を楽しんでいる。
芭蕉さん、と呼ぶのは憚られ、僕はただ背中について座敷にあがった。


「久保田の万寿、ふたつ」
「芭蕉さん」
「いいのいいの。割と好きでしょ」
以前同じ酒を飲んだのは、芭蕉さんとふたりで飲み屋の酒を片っ端から飲み比べたときのこと。
そのときだって別にどの酒が良い、なんて感想をもらした記憶はなかったのだが。
「わかるよー。なあんとなくね」

そうやって笑ったそのひとの、橙の明かりに浮かんだ表情はなんだかとても、
だから、

「今日はちょっと、付き合って。」

ああこのひとは今日泣きたいのだと、僕は思った。

ひざの上で僕は、てのひらをそっとひろげて、ぎゅっと握り締めて。
いいですよとひとこと告げた。






「そーら」
呼ばれて、目の前で銀色のなにかがゆらゆらゆれているのに気づく。スプーンだ。 小野さんが社長のわがままに応えて用意した、社長専用のもの。
実は柄の先にクローバーがついている乙女仕様で、間違えようが無い。
「…社長、なんですか」
「今からカレー食べるんだ。食堂に来るでおま」
「―――今期の決算、今日中に見られなくてもいいんですか」
「会議だから!そらいないと困るから!」
「社食のカレーの種類についての会合でしたら欠席です」
「ちーがーううー!!」
ぎゃんぎゃん騒ぐ社長を横目に、小さくため息をついた。自分に。
会議があることはわかっていた。ただ、社長に声をかけられるまで動けなかった僕自身が許し難い。


このところ自分がおかしいことはわかっている。
それは、あの夜からのこと。






あの夜に、芭蕉さんからぽつりぽつりと聞いた話の内容は、まとめてしまえばそう多くは無い。
別れた奥さんの話だ。
2つ年上だったこと。
とてもやさしい性格だったこと。
いくつかの穏やかな思い出話。
そして、もう何年も前に出て行ってしまったこと。
自分が悪いのだというのは、何度も何度も聞いた。
普段よりも早い段階で酒が回ってしまった芭蕉さんを、いつもどおり僕の家へ連れ帰ろうとしたらぐずられた。
「今日はいえに、いたいの」
タクシーを呼んで、住所を告げると幸いにドライバーはすぐ分かってくれた。
タクシー代は今度倍額をふっかけて払わせようと心に決めながら、一方ではなみだ目で僕の肩によりかかる存在の暖かさを意識した。 芭蕉さんは飲みの帰りや締め切り明け、なんでもない休日などなんの前触れも規則性もなく、よく僕の家を訪れるけれど、僕から芭蕉さんの家まで行くのはそのときが初めてのことだった。
ほどなく着いたのは小さなマンションで、そのうちの一室の扉を開く。
パチリと明かりを点した部屋は、想像以上に僕のこころを痛めた。


このひとはまだ  わすれて いない


それを意識した途端、つい先だって、初恋の話を聞いたときとは違う感覚が僕を侵しはじめ、うう、と呻く芭蕉さんの声に、どくりと心臓がはねた。

「…いちにちで、よかったんだ、って」
「芭蕉さん?」
「たんじょうびくらい、いちにち。近くにいられるだけで私はよかったのよって」

ぽたりと、フローリングにしずくが落ちる。

「私じゃ、足りなかった」
「そんなことも分からなくて、」
「…何年も何年もがまんさせて、しあわせにはできなかった」

ふるふる震える小さな肩に、そっと手を添えたいと思うのにできない。

「どこかでね。しあわせになったって、聞くまでは、」

このまま。

ふるえる声が泣き声に変わって、僕はようやく、小さな体をそうっと抱きしめた。
視界をかすめたものを、そっと思い返す。

にぶいぎんいろの写真立て。
ブリザードフラワーの小さなブーケ。
かわいらしいタオル。
ちいさなぬいぐるみ。
あたたかいいろの、花柄のクッション。

埃ひとつない小さなプレートの上には、ぎんいろの指輪がふたつ。

ぐらり、と頭と身体が熱を持つ。
酔いに任せて、宵闇にまぎれて、今手の中にある細い身体を抱いてしまいたかった。 それでも今、その衝動に従うのは、こっちを見てほしいと、おもちゃを欲しがって駄々をこね、暴れるこどもと変わらない。
違う、僕がほしいものは。

「…芭蕉さん」
泣いているのなんか分かりきっているのに、嗚咽をなんとか抑えようとする姿はいじらしかった。 もし今乱暴にしてやったら、これは報いだと、少しは償いができたと笑ってくれるのか、なんて馬鹿なことを考える。
それも違う。僕が断罪するのはそんなことのためじゃない。

「芭蕉さん」
「っく、ふ、ごめ、ごめんねえ、そ、らく、」
「いいです。後日いろいろ併せて請求します。それより」
「え、ぅ、ううう」
「あんたの幸せは、どこにあるんですか」
「し、あわ…せ?」
「そう。あんたの幸せです」
包み込むように回していた腕に、そっと力を込めた。
小さな期待と、一握りの絶望と、ただ手放したくないという欲望が織り交ざった心のまま、問う。

「私は、しあわせだよ」

きゅうと、僕の服の裾をつかんで言ったりするから。
涙の溜まった赤い目をしながら、それでも心からの笑顔と一緒に告げている気配に僕はたまらなくなって、細いからだを抱き上げて、





「ばすそると!」

頭から風呂に放り込んでシャワーをぶっかけてやった。


その後のことは、まあ大体は芭蕉さんが酔いつぶれて僕の部屋を訪れるときと一緒だった。
貧相な身体に適当に服を着せて寝床に転がし、自分もシャワーを使わせてもらうことにした。 10分もなかったはずだが、酒の臭いが消えたのを確認して寝室を覗き込めば、おっさんはすっかり夢の世界の住人になっていた。
「…弱ジジィが」
軽い苛立ちと共に近寄ると、また泣いていた。寝てるくせに器用なジジィだと思う。
僕はそっと眦に唇を寄せ、しょっぱいそれを丁寧に拭ったあと、棒みたいに細い身体を抱いて寝た。
次の日の朝、僕に抱えられながらひとりで目を白黒させて騒いでいるのを断罪し、一緒に会社にきて、それから、それから、


「芭蕉さん、今度の企画頼むでおま!」
「ううー、こんなの私できないよ!重すぎるよ!」
「もー、芭蕉さんはやればできる子なんだから!曾良と一緒なんだから大丈夫だろ?」
「…う、ん。がんばるっ」
「それでこそ芭蕉さん!まかせたぜ!」

バキリ。

「「…っ!?」」
「すみません。シャーペンを折ってしまいました」
「おいそら、怪我は、…ないよなー、お前だもんなー」
「問題ありません。話は終わったようなので失礼します」


おどおどと、声をかけるかかけまいか迷っている気配が僕の苛立ちをさらに増幅させる。

あの日からだ。
芭蕉さんは、僕の目を見なくなった。







―――嗚呼、苛苛する。



2010/10/18