その手にはまだ、誰も届かない。
誰も知らない 「サーンジー」 その日、トニー・トニー・チョッパーはラウンジの扉を小さく開き、ひょいと顔を覗かせた。 ラウンジの扉はなるべくそっと開けるのがこの船の鉄則だ。ルフィと間違えられて蹴られるのは一度で十分だとチョッパーは思う。 ドラムを経て、一路アラバスタへ。 極寒の冬島で麦わらの一味になったばかりの自分は、船に慣れてきた今もよくキッチンに顔を出す。 ふわりと漂う甘い香りを楽しみに思いながら、チョッパーはとことことラウンジを横断した。 「どした?チョッパー」 泡だて器と銀色に輝くボウルを手にシンク前に立っていた料理人の隣に、 よいしょよいしょと船室の隅に置いてある樽を運ぶと、チョッパーはその上によじ登り青い瞳と視線を合わせた。 「今、ちょっとだけ、いいか?」 「ん、いいぞ」 首を傾げ、少し屈んで目線を合わせてくれたことに小さく安堵しながら、チョッパーは気を取り直して口を開く。 「サンジ。お前まだ無理しちゃだめなんだぞ?」 「ああ、解ってるよ」 声をひそめ、でも真剣な表情で言うチョッパーに、サンジが優しく微笑んだ。 「だからちゃんと背中は冷やさないようにしてるし、お前のくれた薬も塗ってるよ」 「痛み止めは?」 「必要無ェ。大した痛みはもう無ェし、それに鎮痛剤は舌が麻痺するし。俺、薬、効きやすいみてェなんだ。今まで知らなかったんだけどな」 「…そういやゾロとサンジとルフィは風邪引いたこともないって言ってたな」 「仕事柄健康第一だからな。俺がぶっ倒れたら飯どうすんだよ?」 お前も医者だし健康管理はお互い様だったな、とサンジが言うので、 チョッパーはエッエッと笑った後に少しだけ苦しそうな顔を見せた。 「でもな、サンジ」 「ん?」 「見えない傷だってあるんだ。内臓のこととか、そういう意味じゃなくて」 「…チョッパー?」 サンジが訝しげにチョッパーを見る。碧眼に浮かんでいるのは疑問の色。 少し迷ったように視線を揺らしてから、トナカイは再び目の前の金髪の青年に向き直る。 「サンジ、次の健康診断はアラバスタ到着前にやるからな。忘れるなよ?」 船医の言葉を聞いて、サンジは「ああ」と笑って頷いた。 「それも判ってる。いざって時戦えなかったら意味無ェからな、ちゃんと言うことは聞くぜ。ドクター」 ぽんぽんとピンク色の帽子を叩かれて、チョッパーはそっと目を伏せた。 「もう少しでおやつ出来っからな。待ってろよ」 「…うんっ」 ぽんと飛び降りて、自分の乗っていた樽を片付けると、チョッパーはまた後で、と言い置いてキッチンを出た。 *** 飛び降りるように階段を降りると、マストに背を預けて眠るゾロが居る。 このところ、ゾロはずっと三本の刀を大事そうに抱えてこの場所で昼寝をしているのをチョッパーは知っていた。 ぽてぽてと歩き、剣士のもとへ。直ぐ隣にぺたんと座り、ひとつ息を吐く。 自分のピンクの帽子を下に引っ張り、顔を隠した。 お昼とおやつの間の、ぽっかりと空いた時間。ルフィとウソップは男部屋でウソップ工場を展開しているはずだった。 甲板に姿を見せていないビビとナミは多分、女部屋。 言っちゃいけないの。 ナミがそう言った。 ゾロも、静かに、でも少しだけ苦しそうに、言うな、と言った。 ―――サンジは気付いていないのだからと。 「…ゾロぉ」 ああ、だめだ。だって自分には、どうしたらいいのかわからない。 医者なのに。この船の、船医。 「泣くな、チョッパー」 「ゾロ…」 ぺたんとゾロの膝の上に身を倒す。もこもこした自分は暑くないだろうかと一瞬思ったが、チョッパーはそのまま目を閉じた。 昨日の夜、チョッパーは初めてそれを聞いた。 『………行かないで』 今のサンジならば絶対に口に出すことはないその言葉。 『おかあさん、なんで―――』 『ごめんなさ…』 『行かないで』 海賊船に慣れない自分を、キッチンへと誘ってサンジは色々と仕事を押し付けた。 そうして船の中を歩き回っているうちに、気付いたら皆と笑ってバカ騒ぎ出来るようになっていた。 あいつらただの馬鹿だからなァと、笑いながら御褒美だとサンジがくれたアイスクリームはとても甘かった。 やさしい味っていうのはきっとサンジの作る料理からする味のことだとチョッパーは思う。 『行かないで』 そう言って、眠ったまま静かに涙を流すサンジを、昨晩チョッパーは異変に気付いてからずっと泣きながら眺めていた。 魘されるふうでもなく、叫ぶこともなく。だからどうしたらいいのかわからなかった。 ただはらはらと涙を流し、ぽつりぽつりとその言葉たちは吐き出された。 起こそうとした自分を押し留めたのは、いつのまにか起きて側に居たゾロだった。 眠りを妨げることの無い小さな低い声で、投げ出されたサンジの白い手をそうっと取りながら、剣士はチョッパーに教えてくれた。 本当に、時折。 この料理人はこうやって泣く。こどものように、母を呼んで。 初めて気付いたのはゾロだったという。 一度酒を飲み交わし、潰させてしまった時。グランドライン入りするよりも少し前。 痩身を抱えて男部屋へ行く途中、気づいた時にはもうサンジは泣いていたのだと言う。 『初めはただ酔っ払って寝惚けてんだと思ったんだ』 震えながら虚空を掻くその手はあまりにも頼りなくて。だからつい、手を取ってしまったのだと。 チョッパーは見た。 力無く、薄暗いなか浮かび上がっていたその白い手が、ゾロの剣士の手に包まれてふっと指を折ったのを。 すぅっと、サンジが安堵したように吐息を漏らす。涙も言葉も止まっていた。 それはチョッパーが乗り込むよりもずっと前。 サンジがゾロに、まるで他人事のように話したと言う短い短い話。 『置いてかれたんだと』 『母親に、…客船のなかにひとり』 『あんたなんか生まなきゃよかったと、ずっと言われ続けてたと言っていた』 『手を繋いだのは、一度だけ』 最初で最後。さよならもなかった別れの、その一度だけ。 それからそれを幾度か経て、ゾロはナミにだけ相談した。 航海士はほんの少しだけ泣いて、それを『知らない』ことにした。 ルフィやウソップが知っているかどうかはゾロにもナミにも判らない。 このことは、誰も言葉に出したことが無いから。 ゾロの膝の上を転がるのをやめて、チョッパーは座りなおしてゾロを見た。 深緑の双眸は今、まっすぐチョッパーを映している。 「なぁゾロ。サンジは、苦しいのかな」 「さぁな」 「自分で判ってないのかな、苦しいって」 「かもな。あいつアホだから」 「…サンジは、いつも、無理してるのか?」 「んなこた無ェだろ。ナミやビビを褒めちぎるときだって馬鹿やってるときだって喧嘩してるときだって料理してるときだって、あいつはいつだって本気だぜ」 それらは、無理をしてすることではない。決して。 「もしも。もしもな、ゾロ。サンジが、苦しいのを隠しているんだとしたら」 「…」 「オレ、苦しい。…苦しいよ、ゾロ。仲間って、何なんだ?」 オレが寂しいのは、皆が受け止めてくれたから大丈夫だ。 こわいものなんて、もうそんなにないぞ、ホントだぞ。 でも。 こんなのは。 「皆一緒なのに、サンジだけひとりみたいじゃないか」 まるでガラスのはこに入った人形だ。 ずるい、というとゾロがサンジがするみたいにぽんとチョッパーの頭を叩いた。 ふわんと甘い香りがキッチンから漂ってきて、鼻腔をくすぐりはじめる。 もうすぐ、サンジが顔を出しておやつだぞって、笑う。 ルフィやウソップは駆け上がってきて、ナミとビビはゆっくり来て。 女性たちに給仕してから、サンジは他の皆におやつを配って歩いて。 なぁゾロ。オレ、知らんふりできるかなぁ。 返事の代わりに、ゾロが再びチョッパーの帽子を叩いた。 2005/04/04 |