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×××


「…4999、…5000」
午後のメニュー、終了。 ゾロは流れる汗をそのままに、とりあえず料理人や魔女曰くの『鉄団子』を出来るだけ静かに床へ下ろした。
―――どうも夏島が近いらしく、気温が高い。
鍛錬するにあたって寒暖は何の支障はないが、ナミとサンジに「暑苦しい、船尾でやれ!」とぎゃんぎゃん言われるのは正直辟易する。 アラバスタでの暑さに比べれば確かにどうということは無いけれど、暑いことは暑い。 普段なら丁度良いタイミングで水分補給を促してくる足癖の悪い料理人は、今日はまだ姿を見せていなかった。
(…水)
先にシャワーへ行けと、あの金色頭に追い払われる可能性のほうが高いだろうが。
とりあえずキッチンへ向かう前に片付けをするべく、ゾロは再びひょいと錘を持ち上げた。

***

「…でしょう?」
「そうねぇ… それもまぁアリかな」
キッチンの扉の前、タオルを頭に載せたままゾロはふと扉に手を掛けるのを止めた。 扉の中から聞こえてくるのはくすくすという楽しそうな笑い声。サンジと、ナミだ。
「うし、ナミさんちょっと待っててくださいね。外のマリモに水やってきますんで」
「そ?じゃあ私もちょっと船室に降りようかな…」
がたん、と椅子が引かれる音がする。えええナミさん行っちゃうんですかというサンジの情けない声も。
とりあえず毎度毎度ぶつぶつ文句を言いながら、鍛錬が終わる頃に差し入れを持ってくるサンジが姿を現さなかった理由は判った。 持ってくるんなら船尾で寝ててもいいか、と思いゾロは身を翻そうとし――
「あ、そうそうサンジ君」
「なんですか?」
「ゾロってキス上手だった?」
思わずぐるりと振り返って見えない扉の奥を凝視した。
―――何言ってやがんだこの魔女は。
それと同時にがっしゃん!!とキッチンの中から響いたのはガラスが勢いよく砕ける音。続いてサンジの意味を成さない叫び。
「○×!★*@?□▽$#〜〜〜〜〜ッ、…な、なななななナミさんっ!!??」
「ね、どう?」
「どうってあのそれはそりゃあいつだってクソ剣士とはいえ男なわけだしまぁ それなりなんじゃないですかっていうかでもマリモで万年寝太郎剣士だったりするわけでとにかく俺は…っ」
「知らない、なんて言わないわよねぇ?」
がたた、がらがっしゃん!!
(…転んだな)
大丈夫〜?と、ちっとも心配していない、むしろ楽しそうな航海士の声が上がる。 ナミが悪戯っぽい笑顔を振りまいているのがゾロの脳裏に浮かんだ。頭を二、三度軽く振る。小さく溜息。
正直なところ、ゾロは逃げたかった。この場から、今すぐに。
下手をするとナミは扉の向こうのゾロに気付いていてサンジに話を振っている。
―――ナミならば、ありうる。なぜなら魔女だからだ。
とはいえサンジを放置したまま船尾へはもう向かえない。 再びそっと息を吐いて、ゾロは気配を消しながら扉のすぐ隣に腰を下ろした。 船室の壁に背を預け、タオルを被る。なんてったって、暑いのだ。
「あ、あの、ナミさん…」
「なぁに?サンジ君」
「………黙秘権、とか」
「ないわよ。当然でしょ?」
うううううというこれまた情けない声。そして、しばしの沈黙の後。
「わかんないです…」
「あら」
「比較対象になる経験があまり無いので、その、…あいつが巧いのか、とかは、ちょっと」
「うそっ、もしかしてサンジ君あんな剣術馬鹿が初キ」
わ―――ッ!!!とサンジの喚く声がナミの声に被さった。
(…おいおいおいおい)
ゾロは思わず口元を押さえた。タオルの下、顔を伏せる――口角がじわりと上がるのが止められない。
これはおそらく、サンジが見たら瞬間蹴り飛ばされそうな不審さだ。
(ラブコックのくせに慣れてねェなとは思ってたが、まさかな)
…つか、素直に答えてんじゃねェよあのアホ。
「ナミさん落ち着いてください」
「落ち着くのはサンジ君よ?」
「ええとだからそのですね、…レディと夜を過ごさせていただいたことはそりゃ何度かはありますけど。 キス、って特別なもんじゃないですか」
「ロマンチストねぇ。初めてのひとに教えてもらった?」
「まぁそうです。それに俺、…そっちの方よりも楽しく過ごすほうが好きだったし」
成程ね、とナミの溜息交じりの声が聞こえた。続いてかたん、かたんと断続的に響く音。 転倒した拍子に落としたものを拾い上げ始めたようだ。
ガラスは後で俺がやるのでいいです、と言うサンジの声が片付けのとりあえずの終わりを知らせる。
「ナミさん、…いつ気付いたんですか」
「ん?この前船尾でサンジくんがゾロの隣で爆睡していたのを見かけてピンと来たのよ♪」
「うわぁぁあああぁあっ」
がたんがたん!!
ああそういやナミが船尾まで覗きに来たことがあったなと、ゾロは曖昧な記憶を引っ張り出した。 確か、酒の美味かった春島のそばだったはず。
「ほらほら泣かないのサンジ君てば。表のマリモに水やりにいくんでしょう?」
「…俺今ちょっとあいつの顔見れません」
「どうして?」
「勘弁してくださいナミさ〜ん…」

「水がないと植物は枯れちゃうのよ?」
「知ってます」
「人間もよ」
「――知ってます」
「じゃあ行かなくちゃね」
「…ハイ」

私先に出てるわよ、というナミの台詞に続いて規則正しい静かなヒールの音が数歩分。
がちゃり、と扉が開く。
被ったタオルの下から見上げるとナミの紅茶みたいな色の瞳と目が合った。 驚いたような色は無く、後ろ手に扉を閉めたナミのその瞳にいつもの悪戯っぽい光が宿る。
「悪趣味ね?」
「…どっちがだ」
日よけにしていたタオルを取り、ゾロは階段へ向かった。サンジが現れるのはおそらく砕けたであろうグラスの片付けの後だろう。 だったら蹴られる前にひとまず汗を流してきた方がいい。
今のサンジの精神状態では蹴る気力もないだろうが、―――むしろ顔を合わせてくれない確率の方が高そうだと思う。
二人で階段を降りていると、ナミが急にくすりと笑った。
「サンジ君てばやっぱり可愛いわねっ 黙秘権とか言い出した時点でゲロってるのと一緒じゃないねぇ?」
「…魔女め」
「利息三倍にするわよ」
黙って両手を上に。初めて会った時から船長や料理人とは別の意味でナミには敵わない。
「ふふ。あんた二回殴られるわね」
「二回?」
「そうよ。ルフィと、バラティエのオーナーさんと」
「…あいつは嫁なのか?」
「だってあんた旦那でしょう?」
言い切られる。いくら頭のなかを回転させてみても反論の余地が無い。 自分が旦那と呼ばれることに対する、ではなくサンジが嫁と呼ばれる事に関して、だ。
サンジに対するGM号の母親扱いは本人の前では伏せられているものの、ウソップに始まりビビやロビンにまで共通してある認識で。
「それあいつに言ったらまた泣くぞ」
「だってサンジ君可愛いんだもーん」
そう言ってナミはまた、ふふふ、と笑った。
―――ウチの船長がなにより大事にしている、花。
その時、ばたんっと乱暴に扉が開かれる音がした。開いたのはもちろん、キッチンの扉。
ひょいと手摺から身を乗り出したのは言うまでも無くそのキッチンの主だ。
「枯れマリモ、上がって来い!トレーニング終わったんだろ」
言うなり料理人はぷいとラウンジに戻ってしまう。細身の黒い背中を見送ってから、ゾロは笑った。
「あいつ、俺の顔見れなかったんじゃなかったのかよ」
「…」
なにやら物言いたげな視線を感じナミの方を向くと、彼女は半目になってこちらを見ていた。
「何だよ」
「色ボケ剣豪」
「は?」
「アンタ一回鏡で自分がどんな顔してサンジ君見て笑ってるか見てみなさい、外歩けなくなるわよ」
言って、ナミはさっさと下へ降りてしまった。
「…はぁ?」

***

「そこ、テーブルの上」
いい加減汗を吸いまくったタオルを頭に載せたままラウンジへ入ると、料理人はキッチンに立っていた。 漂うのは慣れた煙草の香り。テーブルの上にあるのは水の入ったグラスだった。
「水?」
「ボケ。アホマリモがアホみたいにトレーニングした後に水しか飲まなかったらそれこそ無駄じゃねェか」
サンジのいつもの文句を聞き流しながら一口。確かに水ではない。口腔に広がる、微かな甘み。
「砂糖水?」
「毎度毎度失礼なこと言ってんじゃねェ、何回も飲ませたことあるだろうがよ!チョッパーと一緒に作ったスポーツドリンクだアホっ!」
ぎゃんぎゃん騒いで詰め寄ってきたサンジを見て、ゾロは思わず吹き出した。
「んだよっ!」
「やっとこっち向いたな」
「…え」
「悪い。その、…聞いてた」
知らんふりをするのは、簡単だったけれど。
「すまん」
「てめェ…!!」
振り上げられた足を、一足早く踏み込んで右腕で止める。 懐に入ってしまえば、長い足から繰り出される足技はその効果を失うのをゾロはもう知っていた。腕を引き、崩れた身体を抱きとめる。
「入るタイミング、ズレちまったんだ。本当に悪い」
「悪ィで済んだら海軍は要らねェんだっつの、大体そう思ってるならおとなしく蹴らせやがれっ!」
「嫌だ」
「このクソ剣士…ッ、どっから聞いてた!?」
「…『外のマリモに水やってきますんで』」
瞬間サンジの顔に朱が走る。
「うわああああこのボケっ!アホっ!藻類ッ!!」
そのまま一通り罵声を吐き出して、息を切らせながらサンジはぎろりとゾロを睨み上げた。
「…汗くせェ。クソっ」
「悪ィ、シャワー行きそこなった」
「出直して来いこのアホ」
「全部飲んだらな」
「いつもなら一気飲みしやがるくせにちびちび飲んでんじゃねェっ!」
「気分だ」
「……ッ」
ふいと視線が逸らされる。肩口に金糸が触れた。
「くっそー…」
「何だよ」
しばらくもぞもぞと動いた後、サンジは大きく息を吐いた。
「……知らねェよ、キスなんか」
「いいんじゃねェの」
最後の一口を終えて、ゾロはグラスをコトリとテーブルに置いた。
「俺だって知らねェよ、したいようにしかしてねェ。巧い下手に興味無ェし」
強いて言えば気持ちいい、とゾロは思うけれど、そんなことより何より。
なぁ、と声を掛け右手で金色を梳くと、海の色がゾロを捕らえた。
そっと唇をサンジのそれに落とす。抵抗は無い。
「俺はお前とこうすんの好きだ。お前は?」
静かに問う。問われたサンジは、黙って瞳を閉じた。
「……きらいじゃねェ、よ」
「じゃあ、いいんじゃねェのか」
「考えたくねェ… ナミさーん…」
ぐだぐだとごねるサンジの頭をぽんぽんと叩いてやりながら、ゾロは小さく笑った。


一通り愚痴り、はたと何かに気付いたように目を丸くした後、「お前が諸悪の根源だァ!」という叫びと共に油断していたゾロをサンジがキッチンから蹴り出すのはこの十数分後。




2005/03/27